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米国スラム街の総合病院精神科における臨床経験ー大都会の中に存在する第三世界における精神医療の実態ー


ダグラス・バーガー

アルバート・アインシュタイン医科大学精神科


現代のエスプリ, 340:162-170; 1995.



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<はじめに>

現在、私は日本に在住し精神医学的研究を行っている。本号の特集のテーマはリエ ゾン精神医学であり、私も米国ではリエゾン精神科医として勤務してきた。本稿でこ れより述べる内容はリエゾン医療に直接に関係しているとは言えないかもしれないが 、日本における今後のリエゾン医療を考えるとすれば、米国総合病院における精神科 臨床の実態を知っておくことは決してマイナスにはならないように思う。

<米国の中に存在する「第三世界」>

 米国は技術的、そして学問的にみても世界でも先進国のリーダー的存在であると多 くの人から認知されている。ところがその一方では、米国の大都市の中に「第三世界 」が存在していることも周知の事実であろう。ここで言う「第三世界」とはスラム街 のことを意味する。

 私は米国で精神医療を実践してきたが、米国のスラム街で実施されている精神科臨 床とスラム街以外の精神科臨床とはかなり事情が異なるように思う。というのは、通 常の精神医療の常識がスラム街の精神科臨床ではそのまま通用しないことが少なくな いからである。 私は一九八九年から一九九二年までニューヨーク市のブロンクス地区で精神科医とし て総合病院に勤務した。そこでその臨床経験をもとにスラム街における精神科臨床の 特色を概説する。  

まず最初にブロンクス地区周辺の様子を簡単に述べる。ブロンクス地区周辺の雰囲 気は、移民の流入によって、五○年前と比べるとかなり変わってきたと言われている 。当時は主にヨーロッパ系の移民が多かったが、現在はアフリカ系と南米系の移民が 地域の住民の大半を占めている。今もなおヨーロッパ系の移民者はわずかにブロンク ス地区周辺に残ってるが、ほとんどの人々は一九六○年から七○年代頃に郊外に引っ 越して行った。それは、ある意味では、郊外ではもっと豊かな生活ができるためであ り、また別の意味では、公立の低所得者用の住宅政策が実施されているからである。 この種の低所得者はさまざまな社会的・文化的理由で社会の底辺からなかなか抜け出 すことができないでいる。ホームレスも含めて、大半の人々が生活保護の援助を受け て生活しているのが現状である。また、福祉の援助を得ながら陰で麻薬密売、女中業 、レストラン業、工場勤めなどをする人々も多いと言われている。

<クラック・コカインによる精神医学的問題>  

近辺には放置された無人の建物が点在し、"クラック・ハウス"と呼ばれるクラック ・コカインを密かに使う場所と化している。そこには冷暖房、電気、水道などの設備 はなく、捨てられたビール瓶や割れたガラスの破片だらけの部屋でクラック・コカイ ンが使用されている。今では男性がクラック・コカインを持ち込んで、部屋で待って いる女性との間でクラック・コカインと性交の取引を行なうというのは日常的な出来 事である。その際コンドームが使用されることは少なく、エイズ感染率が、特にこの 付近で増えてきた。  

加えて、クラック・コカインの影響で精神症状が生じる。特に、錯乱状態、焦燥感 、被害妄想、注視妄想、観念奔逸などの躁病に似た精神症状が特徴的である。これは クラック・コカインの急性効果によるものであるが、血中濃度が下がると逆に抑うつ 症状(例えば、落ち込み、希死念慮、全身倦怠感などの症状)が現われる。クラック ・コカインは中枢神経系に作用して神経伝達物質(特にドパミン系)に影響を与え、 血中濃度が上がるとドパミン機能を促進し、血中濃度が下がるとドパミン機能も低下 してくる。慢性的常用者の場合では、神経細胞の中のドパミンの蓄えが欠落してくる ので、ドパミン機能も低下してくる。

 一連の急性症状はクラック・コカインによる薬理効果に関係している。クラック・ コカイン中毒による躁状態のような症状を現す患者と、本当の躁状態にある患者の鑑 別診断をつけるためには、精神科救急外来で一泊させる必要がある。クラック・コカ イン中毒による躁状態のような症状は、翌日にはほとんどおさまっている。しかし、 時には薬物の影響で精神病を引き起こすこともある。中毒状態から回復してもなお、 精神病様の症状が持続すれば入院する必要がある。禁断症状の一つとしてコカインを ひたすらやりたくなる。渇望感が生じ "クレービング" と呼ばれる。病院のある患者 は、コカインをもらうために、わざと狭い隙間しか開かないように作られている病棟 の高窓から必死にもがいて通り抜け、地面に飛び降りた時に背骨を折った。飛び降り て間も無く病棟に連れ戻され、レントゲンを撮ったり整形外科医を呼んだりして、病 院のスタッフをかなりてこずらせたことがある。  

クラック・コカインは一九八○年代の前半からポピュラーになってきたが、それに はいくつかの理由がある。主な理由として、価格が安いこと、急性効果として静脈注 射の麻薬と同様に"ラッシュ"という急激な恍惚感が込み上げてくること、また急激な 性欲や体力のエネルギーの上昇が起こるということなどがある。価格が安く低所得者 でも容易に買えるため、スラム街にはかなり早く浸透した。千円ぐらいで一回分が買 える。対照的に粉末コカインは価格が高く、一回分は五千円から一万円ぐらいになる 。コカインの塊に塩基を加えて加熱すると、化学反応の結果クラック・コカインが生 成される。クラック・コカインの"クラック"というのは、クラック・コカインを燃や すときに”ぱちぱち”鳴る音がするという現象に由来する。  

クラック・コカインは街角にたむろする薬物の密売人("ドラッグ・ディーラー"や "プッシャー"と呼ばれている)から買えるし、コネがあれば電話でも注文できる。病 院の隣にあるピザ屋でも買える。麻薬中毒患者が精神科救急外来から退院直後にその ピザ屋に行ってクラック・コカインを買い、また中毒になったら精神科救急外来で鎮 静剤を注射してもらうのである。病院の医師はポケベルを持ちながらよく病院の周辺 を歩き回ったりするが、麻薬密売人たちもポケベルが役にたつので、たまに医者のポ ケベルが引ったくられる事件もおきている。  

もう一つ危ないことは、コカインなどの麻薬常用者は依存のため金を使い尽くし、 恐喝するために近所の銀行のキャシュマシンに潜む(特に給料日)。また麻薬密売人 たちが縄張り争いをしたりして殺し合うのは珍しくはないし、時には関係のない通り すがりの部外者も殺されることがある。こうした事情を背景として麻薬密売人の間の 争いや麻薬常用者がらみの犯罪を食い止めるために、麻薬使用を合法化せよという主 張も最近よく耳にするようになってきた。

<ホームレスと詐病 ーどうやって精神病院に入院するかー>  

下院議員の選挙区の中で、最も貧しい地域にある病院が最近建て直された。その名 前をブロンクス・レバノン病院と言う。建設当初こそ非常に近代的で清潔な病院であ ったが、周辺の雰囲気にすぐに影響されて、しばらくすると薄汚れた外観に変わって しまった。病院の正面玄関あたりには銃弾の痕さえ残っている。  

病院のスタッフはまるで国連総会に集う各国の代表のようにみえる。医師のスタッ フは白人、ラテン系、インド系、アフリカ系、韓国人等で構成されており、看護のス タッフにはアフリカ系、ラテン系、フィリピン人などが多い。彼らの間にはあからさ まに口には出さないまでも、摩擦や恨みが多少ある。しかし、文化の異なる人々と協 力することで視野が広がり、暖かい人間関係が生まれ、互いに理解し合うことが出来 る。私の上司は聰明な女医であった。彼女は病院とそこから二百メートルぐらい離れ ている駐車場とを行き来する時、襲われないように男装していた。病院の隣に駐車場 があるのに、わざわざ危険を招いてまで遠い駐車場まで行くなんて、最初は理由が分 からなかった。本人に確かめたところ、彼女はユダヤ系のアメリカ人で、彼女の両親 は第二次世界大戦の時ナチドイツの強制収容所の捕虜にされたので、家族全員に被害 者意識があるということであった。恐怖を精神的に乗り越えるために、自ら危険に身 をさらすという行為を、彼女は今でも繰り返している。  

この地域周辺のホームレスの人々の存在は大きな社会問題である。特に麻薬を常習 するホームレスの場合、薬物を乱用したために家から追い出されてしまい街中をさ迷 うか、ホームレスシェルター(家のない者の収容所)にたどりつくしかない。ところ が、冬の街中での生活は非常に大変で、ホームレスシェルターの中は街中よりもさら に治安が悪いので、うまく立ち回れる人は少しばかり快適な宿泊先を知っている。そ れが精神病院(または総合病院の精神科病棟)である。  

精神病院に関する情報は、口コミによるか、あるいは本人の麻薬嗜癖から生じた精 神症状のためにかつて入院させられた経験から得る。それにより、彼らは入院の必要 条件を心得ている。入院させてもらうためには精神科の救急センターに行き、「幻聴 のために自殺したい」とか「人を殺したい」と言えばよいのである。明らかに病気で はない患者(詐病、わざと病気のふりをする)をまた街中に送り返して、万が一自殺 や殺人事件が生じたら、訴訟を起こされる恐れがある。したがって、精神科医はなか なかこの種の患者を追い払うことができない。そして、救急センターでは実質的な退 院の責任を病棟の担当医に転嫁する。このような患者はほとんどが人格障害(大半は 反社会性人格障害、境界性人格障害と診断される)である。彼らは、精神科病棟の秩 序を乱したり、異性の患者の弱みにつけ込んだりするなど、真の精神障害者の治療の 妨げとなる問題行動をおこす。その上、入院を経験することによってさらに巧みに精 神症状を真似るようになる。抗精神病薬によるさまざまな副作用が現れやすいという 特徴もある。  

精神病院へ入院することのもう一つの利点は、精神障害者に支給される手当が失業 者に対する手当のおよそ二倍も高い点である。生活保護や精神障害者用の福祉手当を 受けている人は、仕事をすると手当を失うのでなかなか仕事をしようとはしない。こ のことが彼らが社会の底辺から抜けられないという悪循環を起こしている。生活保護 や精神障害者用の手当てで、およそ一カ月のうち十日間余りはホテルで宿泊が出来る 。残りの二十日間は道路端、地下鉄の駅内、道路の陸橋の下(冬場にここで数人が焚 火を作り、その回りに泊まる)やホームレス・シェルター、放置された建物、家族が 住んでいるビルの廊下や屋上、または精神病院/精神科の病棟などで過ごす。

<精神障害者と詐病患者の見分け方>  

精神科救急センターに来る患者の約二○%は詐病と推測され、これは精神病院入院 患者の約十%を占める。救急センターでは大半の詐病患者の鑑別が可能である。なぜ ならば、精神病患者は精神症状があるのに大体の場合、自分は病気ではないと思い込 んでいる。ところが、詐病の患者は自分が病気であると主張し、精神科医がそれを疑 うと怒り出すという特徴があるからである。また、詐病患者は帰る家もない状態で病 院に自分で荷物を持ち込んで来る。対照的に精神病患者は、普通嫌々ながら家族や警 察によって病院に無理矢理連れて来られる。  

詐病患者への対策としては、試しに患者に向かって「あなたは病気ではないので入 院する必要がない」と言って本人の反応を見るという方法がある。患者の中のある者 は詐病を認め、麻薬常習者の治療センターへ通う約束をして病院から出て行くことを 納得する。あるいは我々の病院には入院できないことがはっきりすれば、他の病院に 行くかもしれない。このような方法がうまくいかなかったら、なるべく家族や知人と 連絡し、本人と交渉するか、場合によっては冷静さを取り戻すために、精神科救急セ ンターに一晩泊まらせることもある。  

繰り返し精神科救急センターに来るために、中にはスタッフが本人の目的をよく知 っている患者もいる。そのような患者にはサンドイッチを食べさせ、時には一泊させ て帰す。しかしながらこういう患者の場合、病院のスタッフ以外との対人関係をほと んどもっていないので、本人にとってスタッフは家族のような存在になり、結果的に 本人が病院から離れられなくなってしまうことになる。  

このような患者は街の十余の精神病院を廻り、2〜3週間に1回位我々の病院に来 て、同じように衣食住の要求を満たす。私自身もアルバイトとして2つか3つの病院 の精神科救急センターでかけもちで働いていたので、同じ日に同じ患者を別の病院で 見かけることもあった。ある日の午後、A病院で詐病であることをしぶしぶ認めたの に、夕方私がB病院に行くと、「自殺しろという声が聞こえて来る」と同じ患者が幻 聴を訴えていたことがあった。その患者は私の顔を見てひどく驚いた。また、犯罪を 犯した後に、警察から逃れるために、患者として精神病院に隠れようとする者もいる。

<エイズと精神医療>  

ブロンクス地区のエイズの現況についてもう少しお話ししたい。まず、精神科救急 外来の医療現場では、エイズ感染による精神症状とそうでない他の精神障害との鑑別 診断をするのは精神科医にとっては大事な作業である。もし、エイズ感染による精神 症状の一つである「エイズ脳症」を精神分裂病の精神症状と取り違えると、抗精神病 薬の投薬のみにとどまり、内科的な検査もしないままで、日和見感染(エイズウイル スによる免疫不全からなる感染。例えば、カリニ肺炎、原虫脳感染など)などの身体 的な病気が発見されない危険性がある。  

エイズウイルスも脳神経系に影響を与える。これはウイルス自体が神経細胞に入っ て、徐々に神経機能を害するためである。特に「高次神経機能」いわゆる思考力など の認識機能が侵されると、エイズ感染性痴呆症となる。精神症状や身体症状の進行を 弱めるための「AZT」という薬物療法があるので、エイズ感染を早期に発見すること が望ましい。「AZT」はエイズウイルスの「RNA」リボ核酸による生殖を抑制する。日 和見感染がなければ、AZTプラス通常通りの向精神薬を投薬し、日和見感染がある場 合は、さらにそれぞれの内科的な病気に対する治療を行なわなければならない。  

エイズ感染による精神症状は、一見すると普通の精神障害(例えば、分裂病や躁う つ病など)に見えるが、よく診ると大体の患者はある程度の痴呆症も伴う。精神科救 急外来に来る患者の鑑別診断では、まず病気の経過を聞く。精神分裂病の平均発症年 令は十代の後半から二十代の半ばぐらいまでである。従って、精神科的既往歴のない 四十代の患者で、急に症状が出た時は「器質性脳障害」、いわゆる身体的な障害を基 礎とする精神症状が疑われる。特に、ブロンクス地区に住んでいるケースでは統計的 にエイズに感染している可能性が高いので、診察にあたる医師はエイズを疑わなけれ ばならない。我々の病院の近所に該当する郵便番号地区に住んでいる住民の相当数が 感染している可能性があるので、デートに誘われたら「相手の郵便番号を聞きなさい 」という冗談が病院で出回っているほどである。  

エイズ感染による精神症状には精神病のような症状がある。例えば、被害妄想、誇 大妄想、注視妄想、幻聴、幻視、思考障害(話がまとまらなかったり思考が滅裂であ ったり訳の分からないことをしゃべるなど)、錯乱した行動(裸で交差点の中で交通 を整理しようとするなど)や変な身振り(自閉症のようにずっとある一点だけを注視 し、人間とは話さないなど)のような症状である。さらに症状が進行すると、痴呆様 の症状でも物忘れ、計算能力障害などの失見当識と手先の不器用、既に覚えてきた運 動機能の喪失などの身体的機能の喪失が生じる。道を渡る時、運転をする時、台所の レンジを使う時などが危なくなるので、ある時点で監視(例えば、訪問看護婦)が必 要となる。  

総合病院の場で起こるエイズ患者についての諸問題を、症例を通して示したい。エ イズ患者の中には麻薬常用者の割合が多く、エイズ感染による入院先でも常用する麻 薬を欲しがる。精神科の当直で働いていたある夜、私は身体科の病棟に呼ばれた。一 人のエイズ患者が病室に閉じこもり、自分の血の入った注射針を振り回していた。「 俺に催眠剤をくれないと誰かを刺すぞ!」と叫んでいた。エイズ感染患者の血が注射 針に入っているので、刺されたらエイズに感染する恐れがある。なぜ精神科医を呼ぶ かと言うと、患者は暴れたり強迫したりするので、精神状態がおかしいと考えられる し、その上「精神科医は言葉だけで暴れた患者の行動を押さえることが出来るはず」 という期待が病院のスタッフにあるからである。  

私が病棟に着いた時には、看護のスタッフはパニック状態であった。患者だけでは なく、スタッフにもカウンセリング治療が必要のように思えた。もちろん振り回され ている注射針への対応が先決なので、さっそく患者と交渉を始めた。病室のドアから ひどく怒っている三十代の男性患者と交渉を始めたが、こういう場合は患者の意向に したがって、催眠剤のような薬を与えるしかない。ところが、薬の量まで患者は要求 しなかった。短時間の交渉の結果、睡眠薬を投薬すれば注射針を渡すということにな った。注射針を受け取り多量の催眠剤を静脈注射したので、まもなく彼は眠ってしま った。そして看護スタッフと一緒に患者を拘束し、次の朝に患者の担当医が来るまで 待ってもらうことにした。この方針の目的は三点ある。まず患者が周囲の人たちに害 を与えないようにすること、その間に担当医がもっとしっかりした治療方針や緊急対 策を作ること、それから私の当直が終わるまで眠れるようにすることである。看護ス タッフは「これは一石二鳥でいいアイデアである」と言い、安堵した様子であった。  

私が内科の研修医の頃、もう一人のエイズ患者のA氏を診ていた。。A氏は慢性の 静脈注射麻薬常用者で、かつて刑務所の囚人だった。彼はカリニ肺炎に罹っていて、 気管支挿入法で呼吸していた。挿入チューブがいやで頻繁に無断で取り出したため、 血中酸素濃度が低くなったので、結局この患者も拘束した。拘束するために全身に被 せる拘束着を使ったが、先輩の内科医が「どうやって聴診器を使うのか」と、内科医 らしい視野の狭い発言をしたため、治療チームの皆は爆笑した。  ある夜A氏は中央点滴も取り外した。その夜の当直の先生は再挿入をしに呼ばれ、 大中央静脈に点滴を入れるはずなのに、誤って大動脈に挿入してしまった。次の朝患 者を診た時、挿入穴から真っ赤な血が鼓動するようにぽろぽろと出て来たため、誤り が発見された。静脈血だと酸素がすでに組織に吸収され、酸素濃度が動脈血より低い ので真っ赤ではないし、心臓への還流に伴う鼓動もない。確認するために検査をした ところ、やはり酸素濃度が高かった。  

点滴を入れ直そうと思ったらA氏は病気の特性のため出血がなかなか止まらなかっ た。つまりエイズ患者は、たまに血液凝固の機能が低下していることもあり、間違っ て点滴を外してしまった場合、出血を止めるためには強く挿入口を押すしかない。日 本から留学に来ていた医学生に頼んで「出血したところを煉瓦で押し続けてくれ」と 私が片言の日本語で言った。血が激しく出ていたので煉瓦で湿布してもらった。私が 他の受け持ちの患者たちの治療に忙しくて八時間ぐらい後で戻って来た時、汗が額に こぼれながらその日本人の留学生はまだ煉瓦を押し付けていた。「ごめんね、他の患 者たちの治療に忙しかった」と私が言ったところ、「大丈夫」と答えた。「そうか、 これが日本人の勤労意欲なのか」と思って感動した。  

この留学生にもう一つ頼み事をした時の話であるが、研修医はよく学生に血液検査 の伝票を作成してもらう。A氏の名前は、我々にとって難しくないが、日本人は、よ く”R” と”L”を取り違える。私が検査の結果を探しに行った時、確かに検体を出 したのになかなか見つからず、困ってしまった。上司は結果を知りたくて、いらつい てきた。留学生に聞いたところやっと分かった。彼の”R”の発音は”L”に聞こえ たので、Mr. ”Land(A氏)”として結果表を探したら血液検査の結果が見つかった 。上司の怒りをなだめ得るための、それはぎりぎりの時間だった。  

以上が私の経験したスラム街における精神科医療の現状である。こういった精神医 療の現状を知らなかった人にとっては刺激的であったかもしれない。しかしこれが米 国の中に存在する「第三世界」における精神医療である。米国ニューヨーク市という 大都会の中に潜む別世界をここに紹介した。