日本における向精神薬の開発
東京都精神医学総合研究所
Science, 273 (July 19), 318-319; 1996.
欧米の精神科医はここ10年来の薬剤の著しい発展の恩恵に浴しているが、日本の状況は米
国でいえば1980年代初期の程度である。欧米で精神疾患の治療に大きな変化をもたらした
新世代の抗うつ剤、抗不安剤、抗精神病剤のいずれも日本の厚生省によって未だ承認され
ていない。他のテクノロジーの分野での日本の先端的な位置を考えると、これは奇妙なこ
とである。
日本での薬剤の承認システムと精神医学の状況をよく観察すると、この「ずれ」の原因が
明らかになってくる。第一に欧米で承認された薬剤であっても日本で臨床試験を繰り返す
必要があることから、製薬企業には信じられないほどのコストがかかる。市場の限られた
薬剤であれば企業にとって財政的負担は更に大きくなる。更に日本での治験の方法にはも
ともと難しい問題がある。方法論にしばしば欠点があり、微妙な精神薬理学的効果が検出
できない。
米国で1980年代後半から抗うつ剤の市場を支配しているProzac(fluoxetine, Eli Lilly)
は日本では未だ開発されていない。我々の知るところではこれは日本で再試験を行うのに
大きなコストがかかり、また適当な市場がないためである。日本ではうつ病の患者は家庭
医にかかることが少なく、仮にかかったとしてもしばしばもっとリラックスするようにと
の助言をうけるに留まる場合が多い。Prozac以外のセロトニン再吸収阻害剤(Zoloft:
sertraline, Pfizer、Paxil: paroxetine, Smith-Kline Beecham、Luvox: fluvoxamine,
Solvay等)について、1990年代初頭から日本で治験が行われているが、厚生省に対する承認申請は未だ行われていない。
臨床試験の方法論の欠点はBuspar(buspirone, Bristol-Myers Squibb)の承認取得の失敗
に現れているようである。Busparは非ベンゾジアゼピン系の抗不安薬で、有効性が認めら
れ、1980年代から多くの国で市販されているが、日本では二つの多施設二重盲験試験でプ
ラセーボを越える効果がないとされた(1)。しかしこれらの試験をよく調べると、あまりに
多くの施設で少数の患者を扱ったため施設間のばらつきが起きており、また、より重度の不安
の患者がよく反応するはずであるが軽い患者も対象とされ、プロトコールに定められた試
験期間も薬物の微妙な抗不安効果を観察するには不十分であった(2)。日本でのこのような
プロトコールのデザインはベンゾジアゼピン(Valiumの例)の場合、6件の多施設比較盲
験試験中5件で不安に対する効果を検出する感度がなかった。外国で行われた試験ではこ
れらの抗不安剤はプラセボに比べはるかに効果があったと結論されている(2)。精神療法は
軽い不安のある患者により適切であると考えられるが、日本の精神科医の多くはbuspirone
にどのような有用性があるか考えず、種々の程度の不安の患者にベンゾジアゼピンを処方
する場合が多い。
欧米で1990年代初期に導入された重要な抗精神病薬にClozaril(clozapine, Sandoz)が
ある。Clozapineは錘体外路系の運動障害の副作用が実際上なく、他の治療に抵抗性の精
神分裂病の30~40%に有効であることが示されているが(3)、日本では未承認で精神科医の
支持も得られていない。日本で臨床試験は続けられているが、1974年に行われた試験で無
顆粒球症による死亡が高いとみられたことから、もっともなことであるが日本の精神科医
はその承認をためらっている。また、白血球減少(知られてはいるがあまり多くはない
副作用)に対し頻回に行われる検査が患者のQOL上好ましくないとも考えられている。
Sandoz社は米国では患者が投与を受ける前に、全国的な血液検査データバンクに登録する
よう要求することにより、無顆粒球症のリスクを最小限にした。また患者は2種の標準薬
の試験で効果のなかったものに限った。
無顆粒球症のリスクは治療開始初期の3カ月で最も大きい。累積発現率は1年で0.8%、
1.5年で0.91%である。Clozapineは米国その他の国で使用され、症状の軽減と入院期間の
短縮に貢献していると考えられている。日本の慢性の精神分裂病患者は通常2種以上の抗
精神病薬を同時に投与され、多くの患者は永年あるいは終生を営利施設である私設の精神
病院で過ごす。
他にも米国で承認され、日本では未承認の精神病薬がある。抗うつ剤としてWellbutrin
(bupropion, Glaxo Wellcome、米国で1989年承認、日本未開発)、Effexor(venlafaxine,
Wyeth-Ayerst、米国で1994年承認、日本で開発中)、Serzone(nefozodone, Bristol-Myers
Squibb、米国で1995年初頭承認、日本で開発中)、抗精神病薬としてRisperdal
(risperidone, Janssen、米国で1994年承認、日本で1996年中期上市予定)、アルコー
ル依存症の治療薬としてRevia(naltrexone、DuPont Pharma、米国で1995年承認、日
本で未開発)等がある。
水島裕博士(元厚生省新医薬品調査会委員、現参院厚生委員会委員)は現在のシステムを
変えることを試みている。博士はあまりに多くの施設に、少数の対象を抱えた多くの治験
担当医師がおり、その多くは臨床試験を行うに充分な知識と経験を持っていないと指摘し
ている(5)。厚生省の新医薬品調査会は通常大学教授で構成され、本業以外の時間で調査会
の仕事を行ってきた。しばしば結果のエンドポイントは不明確であり、試験の結果を決め
るのは効果に関する客観的な尺度よりも医師の主観的感覚であった。このプロセスから、
有効でない薬が有効であるとされ、また逆の場合もあるとの批判も出てくる(6)。
薬物の臨床試験は適切な期間と適切な追跡調査がなければ客観的効果(例えばQOL、生存
期間)を評価できない。日本では未だこの点で欠けるところがある。ある薬剤が治験を通
過すると、厚生省は他の類似疾患に対しても、有効性を評価することなく承認を広げがち
である(7)。ある外国製薬企業の幹部は治験の統括医師(通常大学の医師)にプロトコール
違反を除去させること、また、方法論について議論することは極めて難しいと述べている。
一般的に、治験担当医は独自の方法を用い、製薬企業の言うことを聞きたがらないとされ
ている。
1993年のソリブジンと5-FUの併用による15例の死亡はこのような背景の上で起きた。
その結果、厚生省も企業も副作用の問題に特に敏感になり、承認審査はやや遅くなった。
厚生省はソリブジンのメーカーの日本商事をphase Ⅲ試験での3例の死亡のうち2例を
報告しなかったこと、また、添付文書に十分な記載をしなかったことで処分したが、厚生
省の新薬調査会の不十分なメンバーによる拙速な審議がこの悲劇の実際の原因であると考
えられている(7)。厚生省はこれに応え、治験をモニターする第三者による評価委員会の設
置、より頻回な治験施設の査察、インフォームドコンセントの手続きのより厳密なレビュ
ー等を2年以内に実施するという案を提示した(8)。更に厚生省の人員を大幅に増やす案も
ある。現在欧米諸国に比べ期めて少ない人員(その多くは科学的資格を欠く)が承認事務
にあたっている。
1995年末、横浜でのICH3で国際委員会は臨床試験の結果を国際間で相互に活用する方
向を示した。この動きは日本のシステムを改善の方向に更に圧力を加えることになった。相
互活用は開発のコストを大いに低下させ、国際製薬企業にとって日本市場への薬剤の導入
をより魅力的なものにするであろう。薬物の臨床試験について評価し、そのプロトコール
を認めた各国に、迅速な承認のために勧告する国際的機関を設けることは、試験の繰り返
しという重荷を軽減する一つの方法であろう。これによって各国の再評価のコストは大い
に低下する。[このような場合、薬物代謝に関する人種的差異は考慮されるべきである。
例えばアジアの人種では肝における薬物代謝機能が白人種より低く、用量にも差を生じる
かもしれない。]
ソリブジン事件以外にも厚生省の機構改善を急がせる要因が生じている。最近厚生省は
1980年代中期に、血友病に使う血液製剤のHIVによる汚染の問題で、FDAが回収命令を
出したにもかかわらず、厚生省の担当部局が適切な処置をとっていなかったことを報告し
た。輸入禁止処置が何ヶ月も遅れ、今日、日本の血友病患者の約40%血液製剤によりHIVに
感染しているとされる(11)。
ソリブジン及び血液製剤の事件によって厚生省はより慎重になり、新薬の承認はより遅く
なった。しかし、治験医から治験のコーディネイターに至る、権威の強いラインの存在に
よって、医師に対する臨床試験の適正な方法論の教育が妨げられるため、日本での薬剤の
臨床試験システムに内在する方法論上の欠点を根絶するのは困難であろう。また、異なる
施設で異なる方法で試験が行われることにより、精神疾患における結果の評価を標準化す
ることも困難であろう。日本が外国で既に行われた試験のデータを受け入れることに合意
すれば、承認のプロセスはより速やかになり、コストが低下することにより製薬企業はよ
り多くの承認申請を行うことになろう。医師と一般国民に対して精神疾患について教育す
ることは、この疾患に係わる汚名を減少させ、生物学的に広汎な内容と社会的コストにつ
いての認識を高めることになり、この分野の薬剤の市場を拡大することになろう。
(訳 飯塚 秀文 )
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