FULL PAPER-JAPANESE ONLY (全文ー日本語のみ) アメリカのスラム街における精神科医療の実情
精神病理研究部門流動研究員
(ニューヨーク市,アインシュタイン医科大学精神科)
Tokyo Institute of Psychiatry Newsletter, (In Japanese) 206:1-2; 1994.
アメリカ合衆国は技術的・学問的に世界でも先進国といわれながら、その大都市の中に「第三世界」が存在している。この「第三世界」とは、すなわちスラム街である。スラム街で実施されている精神科臨床とスラム街以外の精神科臨床とは大分違う。私は1989年から1992年までニューヨーク市のブロンクス区で精神科医として病院に勤務したが、その経験をもとにスラム街における精神科臨床の特色をここで概説してみたい。
ブロンクス近辺の雰囲気は、移民の流入によって、50年前と比べるとかなり変わってきた。当時は主にヨーロッパ系の移民が多かったが、現在はアフリカ系と南米系の移民が地域のほとんどを占めるようになった。ヨーロッパ系の移民もわずかに残ってるが、1960−70年代頃に郊外に引っ越して行った。それは、ある意味では郊外でもっと豊かな生活ができるためであり、また、別の意味では公立の低所得者用の住宅政策が実施されているからである。この低所得者はさまざまな社会的・文化的理由で社会の底辺からなかなか抜け出すことができないでいる。ホームレスも含めて、大半の人々が福祉で生活している。福祉の援助を得ながら陰で麻薬密売をする人も多い。近辺には放置された建物が点々とし、クラック・コカインを使う場所になっている。
最も貧しい地域にある病院は最近建て直された。この病院はブロンクス・レバノン病院と言う。建設当初こそは非常に近代的で清潔な病院であったが、周辺の雰囲気にすぐに影響されて、しばらくすると薄汚れた外観に変わってしまった。病院の正面玄関あたりには銃弾の痕さえ残っている。病院のスタッフはまるで国連総会の代表のようだ。医師のスタッフ白人、ラテン系、インド系、アフリカ系、韓国人で、看護のスタッフはアフリカ系、ラテン系、とフリピン人などが多い。人種間にはあからさまに口には出さない間でも、摩擦や恨みが多少ある。しかし、文化の違う人々と協力することで視野が広がり、暖かい人間関係が生まれ、理解し合うことが出来る。
この地域周辺のホームレスの人々は大きな問題である。特に麻薬常習者の場合、薬の使用のために家から追い出され街中をさ迷うか、ホームレスシェルター(家のない者の収容所)に行くしかない。ところが、冬の街中での生活はことに大変で、一方ホームレスシェルターの方は街中よりもさらに治安が悪い。うまく立ち回れる人は少しばかり快適な宿泊先を知っている。それは、精神病院(または総合病院の精神科病棟)である。
精神病院については口コミで聞いて知ったか、かつて麻薬中毒から生じた精神症状のせいで入院させられたことがあるためだ。その経験によって、彼らは入院の必要条件が分かっている。入院させてもらうのに、精神科の救急センターに行き、「幻聴のために自殺したい」とか「人を殺したい」と言えばよいのだ。明らかに病気ではないこのような患者(詐病)をまた街中に送り返して、万が一自殺や殺人事件が生じたら、訴訟を起こされる恐れがある。したがって、精神科医はなかなか患者を追い払うことができない雰囲気が救急センターにはある。そして、実質的に退院の責任を病棟の担当医に転嫁する。このような患者はほとんどが人格障害で(大半は反社会性、境界性人格障害)、病棟の秩序を乱したり、異性の患者の弱みに付け込んだりして、真の精神障害者の治療の妨害となる。その上、入院を経験することによってさらに巧みに精神症状を真似るようになるし、また抗精神病薬によるさまざまな副作用が出現する可能性も高い。精神病院への入院のもう一つの利点は、精神障害者に支給される手当が失業者に対する手当のおよそ2倍も高い点である。
救急センターに来る患者の約20%は詐病と推測され、これは精神病院入院患者の約10%を占める。救急センターでは大半の患者の鑑別が可能である。まず、精神病患者は精神症状があるのに大体自分は病気ではないと思い込んでいる。ところが、詐病の患者は自分は病気と主張し、精神科医がそれを疑うと怒り出す。また、詐病患者は帰る家もない状態で病院に自分で荷物を持ち込んで来る。対照的に精神病患者は普通嫌々ながら家族や警察によって病院に無理矢理連れられて来る。
詐病患者への対策としては、試しに患者に向かって「あなたは病気ではないので入院する必要がない」と言って本人の反応を見る。患者の中のある者は詐病を認め、麻薬常習者の治療センターへ通う約束をして病院から出て行くのを納得してくれる。あるいは他の病院に行くかもしれない。このような方法がうまくいかなかったら、なるべく家族や知人と連絡し、本人と交渉するか、冷却期間を置くために、救急センターに一晩泊まらせることもある。
繰り返し救急センターに来るために、スタッフが本人の目的をよく知っている患者も中にはいる。そのような患者にはサンドイッチを食べさせて、時には一泊させて帰ってもらう。このような患者は町の十数の精神病院を廻り、2〜3週間に1回位我々の病院に来て、同じように衣食住の要求を満たす。私自身もアルバイトとして2つか3つの病院の救急センターで働いていたので、同じ日に同じ患者を別の病院で見かけることもあった。ある日の午後、A病院で詐病であることをしぶしぶ認めたのに、夕方私がB病院に行くと、また「自殺しろという声が聞こえる」と同じ患者が訴えていたことがあった。そして、その患者は私の顔を見てひどく驚いたのだ。また、犯罪を犯した後に、警察から逃れるために、患者として精神病院に隠れようとする者もいる。
今回は、アメリカのスラム街における精神科臨床の実態を少しでも書こうとした。エイズや犯罪などについて詳しく説明する余裕がなかったが、興味のある方は是非研究所の中で私に声をかけていただきたい。
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